井上荒野もつまらなくなったなぁ、と思いながら小説を読んでいたのです。
79歳の妻と72歳の夫の名前が「百々子」「拓人」というのからして、なんだかな・・・その妻が夫を殺してしまう。「どうする?」という家族談義から始まるのだけど。
内容省略するとして、
終わり頃、女が百々子やその娘や息子たちと車に乗っているのですね。拓人さんに会いにいくと言われて。妙だと気づき始めた時、
「辿り着いたらあー」突然息子が歌いだす。馬鹿みたいに大きな声で。
「いつも雨降りいいー。そんなーことのおー、繰り返しいいー」
だまんなさいよ、と言われても黙らない。
「ところがおいらはああー、何のためにいいー」
・・・・
「ああここもやっぱりいいー、どしゃぶりさああー」
ちゃんと歌になってるじゃないの。歌詞の伸ばし方。
私はつい、合わせて歌ってしまう。拓郎だ! 作者は、モップスのつもりだったのだろうけど。ついでに「好きになったよ女の娘」も口ずさむ。
で、ここが私のおかしいところ。突然「ぼくのあたらしい歌」を思ったのですね。
DVDで見たこの歌、とってもいい曲だった。演奏、素敵だった。歌詞を読めば、悪くない。なのに、歌になったとき、なんだかなぁ・・・ピンと来ないのはなぜなんだろう。拓郎の声もいいのに。
もしも、「好きになったよ女の娘」のままだったら、どうだったんだろう。素直に、良い歌だよ、と言えたかどうか。「たどりついたらいつも雨降り」の原曲だからこそ、こっちの方が面白いという面もあるのじゃないかしら。
勿論、最初から、あのメロディは只者ではないと感じていた人もるかもしれない。でも、私のように鈍い人間は、そのままだったらいい歌だと感じなかったと思う。
「ぼくのあたらしい歌」も化けるかもしれない。けど、今は、何か嫌なんだ。「愛してるってなんてテレくさいんだ」の言葉が曲に乗ってしまうと、やにさがった拓郎が浮かんでしまう。
「作ったんだ」「書いたんだ」「好きなんだ」・・・昔なら、こんな語尾もうれしかったんだけどね。
歌って不思議だ。メロディと言葉と声と、三つが三つではない力を持って、生まれ変わる。その変わり方に、私の理解が及ばないということなんだろうけど。